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raurublock

鹿児島県出身。 現在は東京都を拠点に、秘密結社エージェントとして活動中。 Rauru Blockに所属。 (ホームページ:http://d.hatena.ne.jp/raurublock/


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この子がのっちなの? いや、実はいまだに三人の区別がついていないんだ。聴き始めてもう一年以上になるのにな。ヴォコーダーがかかると声の区別ができないというのもあるんじゃないかと思ってる。そんな私でも2月の SHIBUYA-AX はプレリザーブが当選して良かったよ。チケットぴあには感謝しないとな。
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どうって、それが普通だと思うけどな。私の母親は私と妹を産んだ時以外ずっと働いてたから、むしろ専業主婦と言うものの方がよくわからない。だいたい日本では古来から女性も農作業や機織で働いてたのが普通で、専業主婦の方こそ日本人のサラリーマン化が急速に進んだ昭和期に一瞬だけ出現した過渡的な現象だったと見るべきだろう。私の母親は、当時の労働基準法での女子深夜労働禁止の適用除外となる職種だったから、週に一回は当直で会社に泊まる日があった。私が小学校に入学した頃は父親も単身赴任してたから結構大変だったよ。自分と妹と猫の分の食事を準備して片付けて、とか、小さい頃からよくやってた。風呂も自分で炊いてたよ。当時の実家は薪を燃やして沸かす五右衛門風呂だったけど。そういうのって良い経験だったと思うがなあ。母本人にとって大変だったことは認めよう。職場のストレスからメニエル氏病を発症して、片耳の聴力をほとんど失くしたりとか。そんな母も今は退職して、バードウォッチングに出かけたり blog を書いたりして優雅に暮らしてる。
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地獄への道として敷き詰められがちなもの。いや、ヨーロッパの諺にこういうものがあるんだ。The road to hell is paved with good intentions. 日本語に訳すと『地獄への道は善意で敷き詰められている』かな。個人個人はみんな「良いこと」だと思ってやっていることが、実はその組み合わせでとんでもない悲惨な結果をもたらしたりする。そういうことって割と多い。でも、だから善意なんて捨てちまえ、ってのも早計だろう。なぜ善意が合さると地獄への道になってしまうのか。私は、『悪人は頭を使うけど、善意の人はあまり物を考えない』という点に問題があると見てる。悪人は悪事がバレないようにとかズル賢く頭を使って先のことまで考える。ところが善意の人は、「私のやることは善いことなんだから良い結果を生んで当然だ」と無邪気に信じ込んで、あまり先のことを考えずにコトを進めてしまう傾向が強い。ヨーロッパだとこういう諺があるぐらいだからそういう人って多いんだけど、日本でも負けず劣らず多い。でもね、悪いのは善意そのものじゃない。悪いのは『頭を使わないこと』の方なんだ。善意に知性がプラスされれば鬼に金棒だ。どうすれば善意で天国への道を作ることができるのか。それをみんなで考えてみないか。
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私の好きな映画は三つ、Monty Python and the Holy Grail と、Monty Python's Life of Brian と、Monty Python's The Meaning of Life と、Monty Python's And Now for Something Completely Different... 四つだ! 数には弱いのだ。でもスペイン宗教裁判のスケッチはこの中に入ってないんだよな。TVシリーズの日本語吹き替え版 DVD BOX セットが来年2月に出る予定になっているので、合わせて買うことをお勧めしたい(五つだ!)。これらを薦める理由は、単純に腹を抱えて大笑いできるという点がまず一つ。それと、今や Monty Python は英語圏のユーモアを理解する上での基礎教養になっているという点も挙げられる。新聞や Blog 記事でも、真面目な内容にちょっとした捻りを加えたいときなど、Monty Python のパロディがよく使われる。見ておいて損はない作品だ。
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アメリカのゲームデザイナー Chris Crawford が名作ゲーム "Balance of Power" をデザインしたときに残した名言がある。『戦争は、悪人によって引き起こされ善人によって防ぐことができるというものじゃない、愚かさによって引き起こされ賢さによって防ぐことができるもの』 Balance of Power をプレイすると自然にそのことが実感として理解できる仕組みになってた。あのゲームで米ソ間の核戦争を起こさずに平和を保つのは本当に難しい。もう20年前のゲームだけど、本当に良くできていたと思う。最近はそういうゲームをほとんど見なくなった。残念なことだ。敵を蹴散らすカタルシスを求めるものや出来合いの勧善懲悪ストーリーを追わせるものなど、その方がゲーム購買層にとってわかりやすいし、現実を忘れてゲームに逃避できるし、受けがいいのだろう。しかし、現実をよりよく理解するためのゲームというものの復権を私は切に願ってる。
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10年後に外国人労働力を大幅に増やすという計画を立て、10年後に予想される課題に対して今から準備しておく政策プログラムに着手する。今から10年かけて準備すれば少子高齢化社会にも間に合うはずだ。「何とかなるさ」と問題から目を逸らして無為に時間を過ごしていざとなって慌てるという日本人にありがちなパターンはもう止めよう。現状で既に外国人研修生の労働力無しでは立ち行かないのが日本の中小企業の実態なんだし。でも一番重要なのは後継者をどうするかかな。10年後まで総理大臣を続けられるとは思えないし。インタビューでこういう質問が出るとみんな「自分一人でこれだけやる」みたいに威勢のいいことを言うけど、実際はそういうわけにもいかないしな。それに、ネルヴァみたいに良い後継者を指名すれば、私でも五賢帝の一人に数えられるかもしれない(笑)。
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私は妊娠したことが無いからよくわからないけど、声に影響が出るという話はよく聞く。管楽器奏者だと深刻な問題らしいな。まるで吹けなくなるという人もいるらしい。一方声楽系だとたいていプラスになると言うから不思議だ。椎名林檎も「どんどん子供を産みましょう」って言ってたっけ。オペラ歌手でも子供を産んでから声が良くなったという人は多い。知り合いで最近出産したジャズフルート奏者がいて、六ヶ月目ぐらいまで大きなお腹でライブハウスで演奏してたんだが、復帰後はどうなるかなあ。
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今メインで使っているのが2台。1台は WindowsXP を入れてる作業用のデスクトップで、WWWやメールのクライアントとして、それにゲームにも使ってる。Northwood の Pentium 4 で、もう4年近く使ってるけど、Elder Scroll 4 が動かないことを除けば、そんなに不満は無い。もう1台は rauru-block.org のサーバ。Debian GNU/Linux 上でWWW/メール/DNSサーバが動いてる。こっちは Willamette だから結構な時代物だなあ。Northwood を買う前は、Willamette の方がデスクトップ機として動いてて、Coppermine の Pentium III がサーバだった。Northwood がやってきたので、Willamette がサーバ用途へのお下がりになったわけだ。筐体はそのままで、CPU&マザーボードを換装する、って形。実際のところ Northwood に不満は無いんだけど、Willamette が WordPress サーバとしてやや力不足で、はてブでhotentry入りしたりすると load average がかなり上がる。そろそろデスクトップ機を買い換えて、Northwood をサーバに持ってきたい、とは思ってる。今買い換えるとしたら Core2Duo だろうなあ。Penryn のデスクトップ機向けが出たら、かな。え? なんか面白いことも言えって? じゃあ、マハーポーシャについての話でも。実は十年ちょっと前、初代 Pentium が出始めたばっかの頃、当時まだサリンを撒いてなかったオウム真理教が運営する秋葉原のPCショップ「マハーポーシャ」から Pentium の PC を買ったことがあった。安かったんだよ。信者が修行として組み立ててたんで人件費が浮いてたんだな。ただしキャッチもあって、店に行って買っても持ち帰りできないシステム。宅急便で送るから住所を書けって言われて。まあ結局何も起きなかったけどね。あと、筐体にマハーポーシャのエンブレムが着いてるのは何ともアレだった。後から中の部品入れ替えてって、例えば CPU とマザーボードを Pentium Pro のに入れ替えて、電源も容量でかいのに替えて、とかやってったけど、最後まで残ったのが筐体だったから、ずっと後までマハーポーシャマークだったんだよな。あ、今はもちろん筐体も残ってないよ。
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私の両親はクリスチャンだったので、私も幼少時から両親に連れられて教会に行くことが多かった。その教会での説教で繰り返し聞いた話がある。キリスト教の根幹と言ってもいい「汝の敵を愛せ」という教えについてなんだが、こういう話。キリストは「汝の敵を好きになれ」とは言わなかった。嫌いな相手を好きになるってことはさすがに無理だ。好き嫌いは感情の問題だから、頭ではどうしようもない。しかし、嫌いな相手を愛することならできる。愛するというのは、感情ではなく、意志の力だ。嫌いな相手を嫌いだという感情は持ったままでもいい。しかし意志の力でその感情を乗り越えることなら、人としてできるはずだ。という話。キリスト教ではアガペーとしての愛について教えているけど、例えば夫婦の愛も同じなんじゃないかな。恋に落ちるというのは感情の問題だ。しかし、死が二人を分かつまで相手を愛し続けるというのは、感情ではなく意志の問題だ。相手を好きという気持ちはやがて薄れるもの。気持ちが薄れた後でも相手を愛し続けるという強い意思が自分にあるか。そういう意志としての愛を持つことは、感情としての恋とは違って、理性ともうまく調和できる。そういう意志を持って理性的に他人を愛すること。それができるかどうかは、世の中が良くなるかどうかに大きく関わってくる。今の自分がそういう意志を必ずしも持てているとは言わない。しかし持ちたいとは思い続けてる。
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なんだろうな。自分でもよくわからない。私の父親はドイツ古典派を神と崇める人間だったので、私も6歳の頃からピアノを習わせられ、モーツァルトとベートーベンばかり弾かされていた。当時の私にとって音楽とは、弾くものであって、聴くものではなかった。実のところ私は音楽の才能がある方ではなく、読譜力と練習量でカバーしていたというのが正直なところだ。音大出身者は「モーツァルトを聞くと試験の嫌な思い出が甦ってくる」とよく言うが、私もその気持ちが多少なりともわかる。大学に入って実家を離れて上京してからは、自分で何かを弾くことは全く無くなり、もっぱら聴く側に回った。大学生の頃はバブルっぽい音楽を聴いていたし、ここ数年はクラシックに回帰しつつ、去年からはジャズとタンゴも聴くようになった。しかし、音楽を聴くのは好きなんだが、音楽に対してどことなく醒めている自分がいるのも自覚できる。たぶんそれは、6〜17歳の時期の私にとって音楽とは「練習を重ねることで弾けるようになるもの」だったことが影響してるんだろう。
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