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クリエイティブ 16人が答えてます

この作品は、安易な善悪2元論を回避していますね。フィクションを含めた、昨今の分かりやすい「敵」の氾濫をどう見ていますか?

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見殺した人、自殺する人、将軍様、誘拐犯、死刑囚、ハイジャック犯―― 皆、ママは見ています。 言うことは聞きましょう。 メーデー。
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別に善悪2元論を全否定したいわけじゃないんですよ?(笑) 善悪2元論で勧善懲悪な話が好きな人もいますし、それ自体は否定されるべきじゃない。 ただ、そういうのって、構造としてわかりやすすぎませんか?アメリカンというか、資本主義的というか。 でもそれって、もうつまらないんですよね。 『あいつは悪い奴だから、やっつけろ!』『あいつはいい奴だから、カッコイイ!』 みたいな? 悪い奴にも正義があるし、いい奴だと思ってたら名声のためだけに行動してたり。 だから構造として単純化されている事が、そもそも枠組みとして正しくないかな。 そして、自分達も、『善』『悪』という単純でつまらない構造をみるんじゃなくて、その裏にあるものを常に見る必要があるんじゃないかな。 自分は、そういう思いでこの作品を作りました。 そして、その事の大切さを知って欲しいと思う。 難しく考えすぎる必要は全くないですけど、単純に受け入れるのはやめて欲しいですね。
**k
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敵にも敵の世界があって、敵にも家族があったりして家ではみっともない格好でお母さんに「キレイにしなさい!」片付けなさい!」なーんて叱られてたり(笑)。それじゃあ、感情移入できにくくなるってことですよね。主人公側(善役)の味方ができにくくなる。だから、わかりやすくすることが基本ですよね。二時間ぐらいの間に済ませなければならないことだから。でもね、でも善と悪ってさ、実は一人のヒトのココロなんですよね。陰と陽みたいなもので。悪いわたし、と善いわたし、っていうかね。だから、みんなそれがきっちり二元論的に分かれてくれた方が気持ちいいわけ。安心できるの。まさか善悪のわたし、がこうなんていうか実はミックスされていて、善も悪もそこから自分が引き抜いているなんて考えたくないわけ。善悪は自分の選択だって思いたくないんだよね。怖いもの。全部自分の責任になってしまうからね。だから、善悪の作品を見てると、安心できるの。悪い自分と良い自分は別々な場所にいて考え方も相容れないでしょ?ミックスされることはないと確認して安心しているんじゃないかな?私の作品というのは常に二元論からは離れるように作ってます。だって、本当はわからないんだから。いろんな理由があっても、他者を殺したり暴力に訴えかければ、ヒトは法の下に捕まってしまうし、それはあまり良いことではないよね。でも、誰でもが、加害者になる土壌に生きているんだってことは忘れて欲しくない。例えば、現在の表現は自由というけどそうでもないわけですよね。「暴力と性と障害」においては、この国というのはずっと伏せてきたもの。ハンセン病なんていうのは良い例ですね。身体の形態が歪むから、外に出しては行けないと思ってきた。だから、島に病気の人を集めちゃったりしてね。でも。彼らはひょっとすると、私だった可能性があるじゃないですか。たまたまなんですよ。たまたま彼らだっただけ。これはね、障害にも言えるんですね。障害を得たのはたまたま彼らだっただけで、明日は我が身なんですよ。だからこそ、二元論なんていうものはないと知って欲しいというか、それを伝えたいというのはあります。善も悪も地続きなんですよ。大きな溝があると思っていらっしゃる方は多いけれど、全くそんなことはない。加害者を作る土壌の中には、加害者は被害者であった経緯もあるんですよね。その被害者の枠からどうしても抜け出したい、と思うとき被害者は加害者になろうとします。これはヒトの心理なんですよね。だから、いじめられっ子がいじめっ子を殺したりしてしまうのはそのせいなんですよね。結果はいじめられっ子が殺人したと思われているけれど、実は彼は被害者であったというような。昨今の「敵」の氾濫はこうした基本というかベースを考えたくない、と思う人が増えたからだと思います。自分は絶対に良い人であるというような「願い」を事実というか現実だ、と思いたいだけじゃないかな。「願い」や「理想」をあるべき姿としないで、「そうである」と思い込んでいるような感じ。呪文ばかり唱えているような感じね。自己肯定感とか自己否定とかの問題もそうで、「私は私であるし、私は私であっていい」みたいな考え方は自己否定してはいけないと教えられて、そう唱えている。けど、それじゃあ、ダメなんですよね。肯定と否定も地続きで、そこを行ったり来たりできるのが、自己肯定できているヒトなんですよ。悪い自分も自分と認めること。これが大事です。
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>安易な善悪2元論を回避していますね。 嫌味か?(苦笑)
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うーん。意識はしなかったけどね。だから回避ってのはあてはまらないよ。 善悪2元論の作品が世にあるということが君の解釈だと思うし、評論家はどうしてもそういう方向の持っていくんだよね。そうしたほうが評論しやすいからね。これって、評論家の都合で作品を解釈しているわけだろ。おかしいよね。 そもそもクリエイティブな世界で、2元論なんてありえないと僕は思うんだ。それは理解力の欠如だよ。まぁ中には「説明不足」って演出や展開もあるのはあるけど(苦笑)でも人が頭の中に描いたものだけが作品となって世に出ているわけではないだろう。いろんな要素が含まれていく過程において、そのストーリーが厳密に2元論で完結することなんてありえないんだと思うよ。僕の作品は確かに他に比べるといろんな面で多岐に渡っている。ストーリーはもちろん、人物背景も場面場面の歴史観だってふんだんに取り揃えている。でもね、それはこの作品に必要なんだよ。これなしには完成はありえなかった絶妙の調合なんだ。昨今の分かりやすい「敵」の氾濫?それもナンセンスな評論家の影響だね。そもそも敵ってなんだい?そういった質問や取り決めをほしがる人間には作品を見つめる大前提が欠けているよ。作品を見つめるときの前提って分かるかい?分からないからこんな質問しちゃうんだろうけど、それはね「何もない」ってことなんだ。それが前提だよ。何もない。無なんだ。 その時、君に善悪や敵が特定できるかい?判別できるかい?無理だよね。僕は、それが作品に触れ合うときのベストの状態だと思うね。
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あってもなくても、判断の種類は多いほどよい。 二元論は確かにつまんないんだけど、大抵の場合マジョリティに寄りたがる傾向ってのは誰しもあると思うんだ。それが本当に正しいかどうかは別として。多いほうが仮に間違っていたとしても気が楽だもんね。同調できる仲間がいるわけだし。でも、結局どちらかの二つしかないわけだから、自分達で自分の選択肢を狭めているということに変わりはないわけで。 製作者が分かりやすい仮想悪を出して媚びているのか、それに擦り寄る観衆をあざ笑うのか分からないけれど、そういった作品も存在してこそだと思う。多種多様さがあってそのなかからいろいろ選択できる方が、まだ楽しいと思わないか? だから聞かれたような作品が溢れているのも全然オッケーだし、物好きが勝手に違う世界で作品つくってもそれもまた全然オッケーだと思うよ(笑)
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そういうのは、トム・ヨークに聞いてくれよ(笑)
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二元論とかいう難しい学者先生が使うような言葉の意味は良く分かんないから巧く言えないんだけど、『善と悪』っていうのは、相手の側にたてば『こちら側の善は、あちら側の悪』だよね。例えば、悪役の側から見たヒーローっていうのはどう考えても悪っていう。 だから、作品中には『決定的な善』も『完全なる悪』も描き出すことは出来ないと私は思っています。 これは多分、他のクリエイターだってそうだと思うし、だから敵役も何処か憎めないキャラクターが多かったりするんだと思うんです。 だから、一般的に『安易な二元論』だっけ?そんな感じに思われている作品は、制作者側が主人公の考えから見た『悪』が見ている側から見た『悪』になるように表現しただけのことだと思う。 ただ、私はそれをしなかった。それだけのこと。
kio
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そもそも、その問い自体が二元論に溢れています。つまり、『善悪二元論』が『悪』であるという視点ですね。それではいけません。究極のところ、二元論を回避する方法は芸術の文法の上ではありえないと思うんです。だから、この作品も安易な善悪二元論を回避しているわけではなく、善悪が逆転したヴァーチャルソサエティーを単に描いただけです。敵の『氾濫』とは仰いますが、それは『味方』の氾濫との相互関係なわけです。それは防げませんよ(笑)。
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例えば、最近安価で輸入された菓子がよく店頭で並んでるのよく見かけるんだけど、アレ食べたことあります?特に合衆国方面から入ってきたチョコレートとか。食べると必ず砂糖が口の中に残ってじゃりっとするんだよね。向こうはそれくらいチョコーレトといえば絶対甘くないといけないものの代表なんじゃないかなと。善と悪と基としたフィルムでも絶対悪と善がはっきりしているものに海外のものが多いのも一つじゃないんじゃないかな。なにに対して絶対なのかは割愛するけど(苦笑)片方しかみえない目線、というか、一方通行に感情移入するような作品にはしたくなくて互い目的や理由が見える形で、争いあう意思付けをしたかったんだよね。そしてそれが見る側にどう捉えられるのか?って意味でさ。 ちなみにこの作品はいつ『東映アニメフェア』で上映されるのかな?もう何年も待ってい(略
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そうかな? 逆に最近は分かりやすくない敵の方が好まれるんじゃない? 一概に悪いとは言い切れないような敵の方が知的でおしゃれに感じる人の方が多いんじゃないかな。それに合わせて作品の方にも、そういった複雑な悪役が増えているように、個人的には感じることが多いんだけど....。私がベタな少年漫画を好きな理由はそういうところにあるのかも知れない。善悪がはっきりしていてスカッとしていて気持ちがいい。まさに勧善懲悪の世界。現実にはそっちの方が圧倒的に少ないからね
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アメリカのゲームデザイナー Chris Crawford が名作ゲーム "Balance of Power" をデザインしたときに残した名言がある。『戦争は、悪人によって引き起こされ善人によって防ぐことができるというものじゃない、愚かさによって引き起こされ賢さによって防ぐことができるもの』 Balance of Power をプレイすると自然にそのことが実感として理解できる仕組みになってた。あのゲームで米ソ間の核戦争を起こさずに平和を保つのは本当に難しい。もう20年前のゲームだけど、本当に良くできていたと思う。最近はそういうゲームをほとんど見なくなった。残念なことだ。敵を蹴散らすカタルシスを求めるものや出来合いの勧善懲悪ストーリーを追わせるものなど、その方がゲーム購買層にとってわかりやすいし、現実を忘れてゲームに逃避できるし、受けがいいのだろう。しかし、現実をよりよく理解するためのゲームというものの復権を私は切に願ってる。
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質問の言葉難しいよ(笑)敵って、簡単に言うけれどさ、敵ってずーっと敵でもないじゃん。ある時を境にして敵になったり。善悪もそうだよね。逆に最近はボーダーラインが曖昧なのが多くない?どれがイイコでイケナイのかななんて価値観も多様になってるし。ルールではあるかもしれないけれど。わたしにはラインなんてひけないよ。グレーも黒が多いグレーか、白に近いグレーかいろいろとあるようにいちがいに一言で表せないことを表現したかったの。
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人は利害の不一致によって争う。そして、そこにおける相互理解というのは、相手の利害と自らの利害を調整して矛を収める、というレベルでしか達成できないだろう。他者を悪と断定し、完全に否定する事は、とりもなおさずアメリカの取ってきた外交戦略だが、それらはこれまでにも挫折を繰り返してきた。それは結局のところ国家間においての価値観の押し付けの限界で、どこかで必要であった利害調整の失敗なのである。それによってベトナムの時と同じく今回もブッシュ政権が限界に来ている。そんなタイミングでだけ愛と平和が説かれるのもまた、実際におった傷と見比べての利害の不一致に過ぎないと思われても仕方の無い話だ。ところで第二次世界大戦後の戦後処理に関してはそういった失敗をしなかった。その事は不毛なゲリラに突入するよりはずっと両国にとってマシであったと思う。イラクの状況を考えれば、あいも変らず一方的な勧善懲悪に喝采を送る気にならないのである。
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すみません、日本語が、少々難しいようなのですが...。
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まず…善悪二元論が安易だとも悪いとも思いません。正しいか正しくないか白黒つけなきゃいけないってことも現実にはあるし、子ども達が成長する段階のなかには「悪いことは良くないこと」と学ぶ必要性があって、その根底は善悪二元論にあると思うんですよ。ただ、その後成長していく途中で「悪者にも信念や言い分、想いがあるんだな」と気づいて、段々「善悪二つだけじゃないんじゃないかな?」って気づく。その過程が大切なんだと思います。だからそれが氾濫しているとも思わなければ、仮に氾濫しているとしても、受け手の受け取り方次第だと思うんです。あとは時代のニーズじゃないですかね。ひとつのものを提供するに当たって、善悪二元論的なドラマがウケるのか、それとももっと善悪が複雑に絡み合うものがウケるのかを提供者は考える。そういう前提を踏まえた上での質問とするならば、今回の作品が善悪二元論を回避したものになったのは単なる私の好みです(笑)